誰にも教えたくない浅草の超穴場スポット 第二弾
次は、浅草寺を目指します。
待乳山聖天から歩いても15分ほどでしょうか。「江戸通り」、「言問通り」を通って、浅草二天門から浅草寺に入ります。
浅草寺というば、「雷門」から仲見世を通るのが、一般的なのですが、ゴールデンウィークなど観光シーズンの最中は、二天門から入るのがオススメです。
今回は、本堂を通り抜けて、花やしきの方に進みます。
振り返ると、五重の塔と東京スカイツリーが並んでいるビューポイントに到着。普段はこの門は閉じていますが、不定期ながら特別公開される時があるのです。
今回の超穴場スポットは国指定名勝「伝法院庭園」、大絵馬寺宝展です。
ご紹介しておきながら、申し訳ないのですが、3月16日から5月7日までの期間限定の特別拝観なので、現在は見ることができません。あしからず。
でも、不定期ですが、特別拝観できるので、ぜひチェックしてみてください。
「伝法院庭園」の中に入ると、客殿があり、その前には小堀遠州の作庭の庭園が広がっています。
客殿の中です。
横から。
庭園は、回遊式庭園で様々な景観を楽しむことができます。
伝法院庭園は、平成23年に国の名勝に指定されました。
もう少し、近づけて見ます。まるで京都のお寺にいるような錯覚を覚えます。
少し、レンズの方向を変えると今度は現代風な写真に。
少し、引いてみると、古今の塔を一緒に撮ることもできます。
帰りは、伝法院通りの門から出ます。この門も普段は閉じられているので、ラッキーでした。
オレンジ通りから伝法院を振り返ります。もうすぐ、三社祭がやってきますね。
誰にも教えたくない浅草の超穴場スポット 第一弾
ゴールデンウィークは、どこの観光地も激混みでしたが、そんな中、日本一の観光地、浅草界隈にもかかわらず、快適に、しかも思いのほか感動してしまう超穴場スポットに行ってきましたのでご紹介したいと思います。
ここではありません!
今回は、東武浅草駅からのスタートです。浅草駅から江戸通りを渡り、隅田川に沿って緑が広がる「隅田公園」を桜橋方向に600mほど歩きます。前回行った桜の時期はこんな感じでした。
この辺りは、夏には「隅田川花火大会」、4月は桜橋を中心に桜祭りで賑わいます。
蛇足ながら、隅田川沿いの桜並木は八代将軍徳川吉宗だったことはあまり知られていませんね。
6月には紫陽花で、こちらも綺麗なんですよ。
新緑の晴天の日は、隅田川の涼風を感じながら隅田川テラスを歩くというのも爽やかで良いかもしれませんね。
もちろん正面には東京スカイツリーが見えます。
隅田公園内の緑道を歩いていると、「山の宿 渡し跡」や「東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」を通り過ぎます。
追悼碑から100mほど歩くと「花の歌碑」があるので、そこを目印に、通りを渡ります。
オススメの超穴場スポットがここ。「待乳山聖天(まつちやましょうでん)」です。
江戸湊の入江近くにあった頃は、入港する船の目印としての役割もあったそうです。江戸時代に入って、埋め立てが進むと、隅田川を望む絶好の景勝地となりました。
ご利益は、心願成就、商売繁盛、良縁成就といわれています。良縁成就、つまり縁結びの神様ということですが、その謂れは後ほど扁額をご覧いただくとわかります。
境内の階段を上がると、両側に大きな提灯が下がっています。
拡大するとこういう図柄です。なんと、大根なんです。
そして、ユニークなのは、お供え物が「大根」というところ。謂れでは「大根は深い迷いの心、いかりの毒を表し、大根をお供えすることによって、聖天様が心の毒を清めてくださいます」と書かれていました。江戸時代は、このあたり農村だったことから檀家の人たちが供物にしたのかもしれませんね。
寺務所にはお供物用の大根が置かれていました。値段は、やはり時価です。
前回お参りした時は、ちょうど野菜が高騰している時だったので、1本400円でしたが、今回は250円です。
それでは、本堂の方に進みます。えっ、お寺なのに狛犬?と思わず目を疑ってしまったのは私だけではないようで、お参りの際に、二礼二拍手一礼している方もいらっしゃいました。あらためて、狛犬は神社だけではなく、寺院にもいらっしゃるのです。
いよいよ本堂へ。
それでは、あらためて扁額をご覧いただきましょう。
いかがですか。縁結びの神様らしい見事な扁額ですね。
浅草の人力さんも、女子やカップルを案内するのに欠かさない場所の一つなのがわかります。
もちろん、今戸神社も縁結びの神様として人気がありますから、この二つは押さえておきたいものです。このブログでもご紹介していますので、参考にしてください。
もう一つの魅力は、見事な日本庭園です。四季折々に草木を楽しむことができます。人力さんもここで記念写真を撮る場所と心得ているようです。特に桜の季節は格別ですよ。
もちろん、 正面には東京スカイツリーがあって、忘れられない光景を目にすることでしょう。この写真は、新緑が眩しい、この時期のものです。
帰りがけに、もう一つ見ていただきたいのが、小説「鬼平犯科帳」、「剣客商売」で有名な作家の池波正太郎の生誕地碑です。ファンの方はぜひ。
いかがでしたか。
次回も超穴場スポットの第二弾をご紹介いたします。今回のスポットはこちらです。
忠臣蔵は徳川幕府が仕掛けた壮大な復讐劇だった!?「泉岳寺」
「忠臣蔵は徳川幕府が仕掛けた壮大な復讐劇」、「四十七士はなぜ泉岳寺に埋葬されたのか」。
これは、竹村公太郎さんがお書きになった『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫)の中に出てくる項目の題名です。興味深いタイトルなので、手に取った方も多いと思います。
謎を解くキーワードは、泉岳寺の創建が「徳川家康」だったというところです。確かに、私自身も泉岳寺は四十七士が弔われている場所というイメージだけだったのですが、もともと泉岳寺は徳川家康が今川義元を弔うために建てたお寺だったんですね。
最初は、ホテルオークラの辺りに建築されたのですが、寛永の大火事で焼失したため、現在の場所に徳川家光が毛利家や浅野家たちに普請させて再建した所なんです。
ですから、普請した立場(浅野家の菩提寺)からご当主の浅野家の家臣である大石内蔵助ほか四十七士の墓碑があることに疑問が浮かばなかったのですが・・・確かに、家康が創建したお寺だったということを改めて考えてみると、・・・。
この事件は、ご存知の通り、浅野内匠頭が徳川幕府の高家(こうけ)である吉良上野介を城内松乃廊下で刃傷沙汰にしたことで、幕府が浅野内匠頭に切腹を申し付け、お家お取り潰しにしたことがことの始まりでした、確か。
そして、浅野家家臣の大石内蔵助ら四十七士が本所の吉良上野介の屋敷に討ち入り、首をとったことで、当主の仇を討つというのが「忠臣蔵」の筋書きでしたね、大雑把に言うと。
今でも、毎年12月14日ともなると、歌舞伎や映画でも話題になりますが、竹村さんの著書によると、その筋書きに裏話があったと言うことなんです。
実は忠臣蔵は、徳川家が100年の恨みを晴らす目的で仕組んだものだったというのが竹村公太郎さんのご意見なんです。
その根拠とは、徳川幕府が、高家の吉良氏の暗殺を企む四十七士が麹町などの城下に潜入していることを見逃すことはあり得ないという点です。
もう一つは、松乃廊下での刃傷沙汰のあと、呉服橋門にあった吉良氏の屋敷を本所回向院の隣に移していることです。
呉服橋門といえば、北町奉行所が近くにあり、当時の警察のエリートたちの邸宅があった場所。吉良家の屋敷が呉服橋門であったとしたら討ち入りは不可能であったに違いありません。吉良家の屋敷を本所に所替えしたことも意図的だったのではないかということが理由です。
大石内蔵助ら四十七士が討ち入りを遂げた結果、吉良氏は首を取られ、その息子達もそれが元で命を落とし、お家が断絶します。それに対し、大石内蔵助ら四十七士は切腹し、武士の本懐を遂げ、後に浅野家や家臣の家は許され、復活を遂げることになるのです。
お詣りした方はご存知ですが、泉岳寺は江戸の大木戸門の近くにあり、東海道に面していたことから、旅人たちが江戸に往き来する際に立ち寄るのに都合が良く、忠臣蔵の舞台として「泉岳寺」は全国に広がりを見せることになりました。このことは、徳川家にとっても都合が良かったということなんです。
それでは、徳川家が吉良上野介の暗殺に加担したとしたら、そのワケとはなんだったのでしょうか。
室町時代からの名家であり、朝廷と幕府の仲介や調整役をとる立場にあった吉良家は、関ヶ原の戦いでも、大きな働きをしたことから代々高家という身分を与えられていました。しかし、徳川家にとっては、征夷大将軍を世襲していく度に、朝廷との間で吉良家が介入することが目障りだったのではないかと言うことなんです。
また、愛知県にある矢作川の上流の岡崎に領地を持つ徳川家康と、矢作川の下流に領地を持つ吉良家の間に確執があったのではないかと言うことも竹村さんは述べています。それは、吉良家の領地が矢作川河口にあることから、堆積した土砂で干拓がしやすく、農地が自然と広がっていく地形を持っていたため、家康にしてみれば面白くなかったのではないか、というワケです。その証拠には、後に、家康が天下を取った後、矢作川の流路を変えているのです。なるほど、面白い話ですね。
竹村さんの「日本史の謎は地形で解ける」を読んだ後、あらためて泉岳寺にお詣りしてみました。下の写真は、吉良上野介の首洗いの井戸です。
浅野家とその家臣である四十七士のお墓に詣りました。この門は、旧赤穂藩上屋敷移築門なのだそうです。
浅野内匠頭の墓です。
四十七士の墓が整然と並んでいます。今も線香が絶えることはありません。
最後に、大石内蔵助の墓に詣りました。大石内蔵助さんにも感想を聞いてみたいところですね。
泉岳寺の場所はこちらです。
誰にも教えたくない甘味処「福田屋」さん(残念ですが、つい最近閉店されました)
下町の甘味処「福田屋」さん
知る人ぞ知る、昭和レトロを地で行く甘味処「福田屋」さん。大田区の"アド街ック天国"でも紹介されているお店なんです。
このところ、毎週のように通っています。その理由は、昭和時代の庶民の優しさが溢れているところですかね。昔、こんなお店、家の近くにありましたよね。
福田屋さんの色褪せた赤い暖簾にも歴史を感じますが、「今川焼」のお店と思いきや、店内に入ると驚くほどに懐かしさを感じさせてくれる完璧な昭和を体現した甘味処のお店なんです。
暖簾をわけて、店内に入ると、買い物帰りのご夫婦や、散歩の途中で寄ったようなご近所の人たちでいっぱいです。窓際のテーブルが空いていたので、連れと二人で腰掛けます。「いらっしゃい」と出迎えてくれる店員のおじいさんとおばあさん。「注文はこの紙に書いてくださいね。」とお茶を差し出してくれます。
後から入ってきた中年の男性がテーブルに着くなり、「いつもの盛り合わせね」、と常連の空気が漂います。出てきたのは「普通のアイスと小倉アイス」の組み合わせ。
早速、目の前に掲げられているお品書き(メニュー)を見て、またまたビックリ。
一番高い甘味が「クリームあんみつ」で、何と250円。大抵のメニューが180円以下。ドリンクに至っては、コカコーラが100円。これは驚愕としか言い表せません!
お品書きを拡大して見てみてください。
テーブルから窓越しに小さな裏庭もパチリ。小さな池には鯉が何匹も泳いでいます。
待つこと、5分、早っ。つい先ほど注文した甘味が運ばれてきました。
前にいる連れが注文したのが、このお店で一番高価な「クリームあんみつ」、そして「お雑煮」。私は「田舎じるこ」と「磯辺焼き」。一挙に田舎の家に帰ってきたみたいな錯覚を覚えます。小さな幸せを感じながらいただきました。
「ごちそうさまでした。」「ありがとうございました。お会計は790円です。」会計係りのおじいさんの計算はもちろん暗算です。
ちなみに内訳は、クリームあんみつ250円、お雑煮180円、田舎じるこ180円、磯辺焼き180円でした。
こんなお店、家の近くに欲しいなあ、と思いながらお店を後にしました。
勝負運と縁結びのパワースポット「乃木神社」のお守りが可愛いと評判!!
「勝負運」と「縁結び」の神様
東京赤坂にある「乃木神社」は、「勝負運」と「縁結び」の神様として、今、話題のパワースポットです。
日清戦争と日露戦争で活躍した乃木希典大将をご祭神として祀られていることから「勝負運」のご利益があり、内助の功として尽くした静子夫人と最後まで仲むつましく生きてこられたことから「縁結び」の神様としても崇められています。
神社の隣が千代田線「乃木坂駅」なので、交通アクセスもとても便利です。鳥居をくぐり、階段を上ると、大きな「勝守」の看板が目を引きます。
ジャニーズの聖地
「乃木坂」で連想するのは、やはり乃木坂46ですね!
昨年は「インフルエンサー」が第59回 日本レコード大賞を受賞しました。
実は、乃木神社の近くにジャニーズ事務所があることから、乃木神社はジャニーズの聖地としても知られていて、海外からも多くのファンが足を運ぶのだそうです。
手水舎(ちょうずや)は、社殿脇に置かれています。まず、ここで参詣者は手や口を漱ぎ清めます。
「縁結び」の神様だけに、手水舎の部材にも「ハートのマーク」が刻まれています。
明治45年7月30日明治天皇が崩御されて、御大葬の日と決まった大正元年9月13日午後8時過ぎに乃木大将と静子夫人は自室で自刃されます。ご夫妻の忠誠心に感激した国民がこぞって乃木邸に訪れたそうです。明治神宮創建のあと、同志が中心となり乃木神社の造営を行い、大正12年11月1日に鎮座祭が斎行され、乃木神社が創建されました。
拝殿脇の白梅がちょうど見頃を迎えていました。
「よりそひ守」と「つれそひ守」のお守が可愛い!
「つれそひ守」は、縁あって結婚した夫婦が末長く連れ添っていけるようにという願いが込められているありがたいお守りなのです。
お守りの絵柄にもしっかりと「結び」が描かれています。隣にある犬の足型のお守りは、我が家の愛犬にといただいたものです。交通安全と健康長寿の願いが込められています。
「つれそひ守」と同様に、「よりそひ守」がとても可愛いと評判になっています。現在、お守りがとても好評で、なかなか手に入りにくい状態のようです。
(乃木神社ホームページから)
史跡「旧乃木邸」も公開されています
乃木神社の隣には旧乃木邸があります。明治天皇崩御と共に殉死された乃木希典陸軍大将と夫人の静子様の邸宅です。この邸宅は、フランス軍隊の建物を模して乃木希典大将自身が設計して建てたものです。
邸宅の中は、普段は公開されていませんが、ご夫妻の命日の9月13日を含め、年に3回だけですが、一般公開されているようです。(無料)
正面玄関です。建物の周りに脚台が整備されているので、外観と共に、窓越しから建物の中を見学することができます。
馬小屋は、煉瓦造り、日本瓦葺きの平屋建てで、母屋より立派であったことから、「新坂の馬屋敷」と称されて評判になったといいます。煉瓦は英国から取り寄せるほどのこだわりぶりで、馬を大切にした乃木大将の人柄が偲ばれます。
四季折々に、緑豊かな庭園も楽しむことができます。
アクセスマップ
都内最強のパワースポット「明治神宮」
信濃町から、都内最強のパワースポット「明治神宮」、「東郷神社」へ
- 信濃町から、都内最強のパワースポット「明治神宮」、「東郷神社」へ
- 映画「君の名は。」でも登場した「聖徳記念絵画館」
- 新国立競技場は急ピッチで工事中です
- 古刹の聖輪寺(しょうりんじ)
- 都内最古の富士塚のある「鳩森八幡神社」
- 都内最強のパワースポット「明治神宮」、「清正井(きよまさいど)」
- 勝利の神が宿るパワースポット「東郷神社」
- アクセス
信濃町の地名の由来は、江戸時代、この辺りに永井尚政(信濃守)の下屋敷があったことによります。現在は、信濃町駅の西側に慶應義塾大学病院、東側には創価学会本部があります。政界では「信濃町」を公明党の隠語として使用されることもあるとか。
本日は、ここから千駄ヶ谷を通り、「聖輪寺(しょうりんじ)」、「鳩森八幡神社」を巡り、北参道から「明治神宮」に入ります。
ガラス張りのビルが信濃町駅です。道路を隔てたベージュの建物が慶應義塾大学病院の正門です。撮影したこの場所に「滝沢馬琴終焉の地」の解説板が建てられています。滝沢馬琴はこの場所で「南総里見八犬伝」を完成させ、嘉永元年(1848)、82歳で亡くなっています。ここから神宮外苑に入ります。
映画「君の名は。」でも登場した「聖徳記念絵画館」
神宮外苑を象徴する建物と言えば、この「聖徳記念絵画館」ですね。大ヒットしたアニメ映画「君の名は。」にも絵画館が描かれています。
聖徳記念絵画館は、明治天皇崩御後に建築計画が持ち上がり、大喪の礼が行われた葬場殿跡地に大正15年に竣工されました。明治神宮外苑の造営の主たる目的でもある建物である。現在でも、建築当初のままのドーム状の荘厳な建物を見ることができる。維新の大改革など歴史的光景を史実に基づいた厳密な考証の上で描かれた80枚の名画が展示されています。
絵画館の裏にある葬場殿趾の石碑は、大正元年9月13日明治天皇の御大喪が旧青山練兵場で行われましたとき、この場所に御轜車(ひつぎを乗せる車)が安置されたことから、外苑造営にあたり葬場殿を記念として建立されました。
石壇の中央にある楠は、建立と同時に植樹された記念樹で、今では堂々とした見事な大木に成長し、石碑に優しい影をなげかけています。
絵画館の正面左の植え込みには「御鷹の松」があります。江戸幕府三代将軍徳川家光が鷹狩りの途中、後に国立競技場の敷地となった境妙寺で休息していたところ、江戸城より愛鷹「遊女」が飛来し、境内前庭の松に止まったという言い伝えがあります。
家光はこれを大いに喜び、この松を「遊女の松」と名付けたとか。
時代が下ってからは「御鷹の松」、また地名から「霞の松」と称されるようになりました。(昭和54年8月絵画館前庭西側の現在地に移設)
新国立競技場は急ピッチで工事中です
ここから、観音橋の交差点に向けて歩きます。途中で2020年の東京オリンピックに向けて、突貫工事最中の新国立競技場の様子を撮りました。急ピッチで進んでいるようですね。
古刹の聖輪寺(しょうりんじ)
観音橋の交差点を左折します。しばらく緩やかな坂を歩くと、左に「聖輪寺(しょうりんじ)」が見えてきます。聖輪寺の創建年代等は分からないようですが、神亀2年(725)行基菩薩の開基といい、宥光(明暦3年1657年寂)が中興開山したと謂われています。
都内最古の富士塚のある「鳩森八幡神社」
そのまま、道なりに進むと 五つの道が交差する場所に出ます。その正面に「鳩森八幡神社」があります。その神社の隣にはかつて旧千駄ヶ谷町役場があったようです。
鳩森八幡神社の境内には、大きな築山があります。江戸時代に流行った富士塚の一つで、現存するものでは都内最古といわれています。烏帽子岩やお中道巡りなどあって本格的な富士登山が疑似体験できますよ。
富士塚頂上からの景色も抜群です。立春を迎えて梅の花もちらほら、春の兆しですね。
都内最強のパワースポット「明治神宮」、「清正井(きよまさいど)」
これまでの道をそのまま進みます。道の両側にはブティックや飲食店、商業ビルなどが並んでいて賑やかです。しばらく進むと、北参道の交差点に出ますので、左に折れます。上には首都高速4号線があります。正面に大きな鳥居が見えてきます。明治神宮北参道の入口です。鳥居の前で一礼です。
参拝している7割以上の人は外国人観光客です。それも欧米系の人が多いのに驚きました。
明治天皇が明治45年に崩御しますが、国民からの御神霊をお祀りしたいという熱意から緑豊かな代々木公園につくられた経緯があります。そして、神宮に植えられた木々は10万本の献木で人工林です。クレーンが見えますが、東日本大震災で被害を受けた宝仏殿の改修工事を行なっているところです。
拝殿の背景には計画どおりに配置された緑濃い大樹が覆っています。
山道の途中に設けられた北門から明治神宮御苑に入ります。入口で御苑維持協力金500円支払います。この御苑は、熊本藩主加藤家下屋敷、後に、彦根藩主井伊家下屋敷となった場所です。
数寄屋造りの隔雲亭(かくうんてい)は、昭憲皇太后の御休憩所として明治天皇がつくられたもので、前庭から南池を見下ろすことができます。
御苑では四季折々に草花を楽しむことができますが、6月には花菖蒲が見事です。今は準備中というところでしょうか。
花菖蒲田の奥に「清正井(きよまさいど)」があります。この井戸は古くから江戸名井の一つに挙げられていました。ここが江戸時代初期に加藤家の庭園だったことから加藤清正が掘ったと言い伝えられています。湧き出る清水は年間を通して15度前後なのだそうです。ここから湧き出た清水が下の写真にある南池をつくっています。明治神宮の中でも特に強力なパワースポットなのだそうです。
今朝の気温がマイナスだったこともあって、南池の半分は凍っています。
南参道の鳥居を潜ると都会の喧騒に戻ります。
神宮橋の下は山手線です。
平日にもかかわらず、昔も今も竹下通りは元気です。竹下通りは最後の見学コース「東郷神社」への近道です。
勝利の神が宿るパワースポット「東郷神社」
原宿駅から竹下通りを通って徒歩5分の場所に鎮座する東郷神社。日露戦争中に行われた日本海海戦の総合司令官として連合艦隊を指揮し、日本を勝利に導いた英雄、東郷平八郎が祀られる神社です。有名アスリートや受験生が参拝する「勝利の神」の神社として名高い勝運パワースポットです。
現在、境内全体が改修工事期間になっているようです。
境内には、潜水艦の戦時における殉国者の碑があります。
原宿駅に着きました。信濃町駅から明治神宮、東郷神社を巡るこのコースは約2時間半で、10キロほどの行程です。都内の中とは思えない静けさを感じる小さな旅でした。
アクセス
縁結びの神様♡今戸神社と徳川家侍医「松本良順」の生涯
正月の初めに浅草にある今戸神社に初詣に行ってきました。
最近では、「縁結びの神様」として脚光を浴びている神社です。今戸神社は、幕末、沖田総司の終焉の地であり、新撰組ともゆかりのある徳川家侍医 松本良順の私邸があったところでもあります。目次は次のとおりです。
縁結びの神様♡今戸神社
今戸神社は、浅草寺から隅田川沿いに1キロほど離れた場所にあるので、外国人観光客で身動きできない雷門あたりとは違い、下町の住宅街にある静かな佇まいの神社です。
ですが、どこの町や村にもある鎮守様と違って、江戸時代には三代将軍徳川家光の庇護を受けていた由緒ある社なのです。
今戸神社の記事は「猫たちがご縁を招く♡都内最強の 縁結び神社・今戸神社」で紹介していますので、そちらもご覧ください。
「今戸神社」は、最近、招き猫がご縁を招くパワースポットとして女性雑誌「Hanako」などにも特集されていて、そのせいか、女子やカップルが多く、この日も拝殿まで30分待ちの長蛇の列ができていました。その拝殿には、今戸神社の御神体とも言える大きな招き猫が2体置かれています。
そもそも、この辺りは今戸焼の発祥の地で、江戸時代には今戸焼の招き猫が一大ブームになったいたようで、その名残でもあるのです。拝殿の前には「今戸焼の発祥の地」と書かれた石碑もあるので、こちらも一見の価値があります。
ちなみに、正式なご祭神は、国産み・神生みの「イザナギノミコト」「イザナミノミコト」の夫婦神でして、そこから招き猫も「なぎちゃん」「なみちゃん」と名前が付けられているのだそうです。
この「今戸焼の発祥の地」の石碑の隣に、もう一つ小さい石碑が建てられています。
そこには、「沖田総司の終焉の地碑」とあります。石碑の裏には「慶応四年三月三十日没」と刻まれていました。また、この境内にかつて松本良順寓居があったということです。
松本良順と新撰組・沖田総司
沖田総司といえば、新撰組のイケメン。剣の腕前も新撰組の中でもずば抜けた剣豪で、新撰組一番隊組長として重要な任務をまかせられていました。池田屋事件では近藤勇とともに最初にに池田屋に踏み込んでいます。しかし、その後、肺結核を患い、鳥羽伏見の戦いにも参戦できず、鳥羽伏見の戦いに敗れたあと、他の隊員とともに幕府の艦船「富士山丸」で江戸に戻り、しばらく神田泉橋にある幕府医学所に入院していました。
その幕府医学所(東大医学部前身)の頭取が松本良順だったのです。その後も、松本良順は、徳川家の侍医となり、第14代徳川家持の治療にも当たっていたのです。
実は、多くの日本人は「松本良順」の顔を見たことがあります。というか、一度や二度はお世話になっているのではないでしょうか。まわりくどい言い方をしてしまいましたが、ある薬のパッケージに良順の顔写真がトレードマークになっているからです。
その薬とは、奈良の日本医薬品製造株式会社の征露丸です。今は大幸薬品の正露丸を目にする方が多いかと思いますが、征露丸の名称の方が歴史的には古いようです。
さて、実際、今戸神社に寓居を構えていた松本良順とはどんな人物だったでしょうか。そして、今戸神社で亡くなった新撰組の沖田総司と松本良順との出会いとは。色々な興味が湧いてくるではありませんか。
その疑問に答えてくれたのが、吉村昭著「暁の旅人」(講談社文庫)でした。
徳川家侍医 松本良順の生涯
松本良順は、天保3年(1832)に、順天堂を開いた佐藤泰然の次男として生まれました。そして、父の親友であった幕府の医師(奥医師)松本良甫のところに養子に行っています。その娘で1歳年上の登喜と結婚します。松本良甫も蘭方医として西洋医学を学んでいたので、自然に良順も西洋医学の道に進みたいと考えていました。当時、長崎には幕府の海軍伝習所が設けられていて、日本人に軍艦の操縦を伝習するためにオランダから一行が派遣されていました。その中に数名の医者が含まれていました。その中の一人ポンペから西洋医学を学ぶため良順は江戸から長崎に行ったのです。
ここで、松本良順の実父の佐藤泰然について触れておきたいと思います。佐藤泰然は、武蔵国(現神奈川県)川崎にて佐藤藤佐(とうすけ)の子として生まれます。天保6年(1835)より長崎に留学し3年間オランダ医学を学び、その後天保9年(1838)、江戸日本橋薬研堀に蘭医学塾「和田塾」を開きます。天保14年(1843)、佐倉へ移住し「順天堂」を開いています。のちに泰然の養子となった佐藤尚中が順天堂病院を東京につくります。
佐藤泰然が開いた蘭医塾「和田塾」跡は薬研堀不動院(川崎大師東京別院)の駐車場の横にあります。
松本良順は、長崎で5年間にわたり最新の西洋医学を実証的に学び、江戸に帰ってきました。そして、神田泉橋にある幕府の医学所で頭取になりました。医学所頭取になって2年後、医学所に新撰組の近藤勇が訪れます。目的は、松本良順に外国というものがどういうものなのかを聴きに来たのです。当時、尊皇攘夷派を容赦なく斬殺してきた新選組としても外国の事情を知る必要があったのです。
翌年、松本良順は、将軍の侍医として京都に帯同します。滞在中に再び近藤勇が訪れ、松本良順も新撰組屯所の京都 西本願寺に行き、新撰組の健康管理の指導をしています。
やがて、鳥羽伏見の戦いがあり、幕府側は、薩長を中心とする官軍に圧倒的な兵器の差で大敗します。その後、官軍は江戸に入ってくるのです。その頃、松本良順は、神田泉橋にある幕府の医学所では官軍が攻め入ることが予想できていたため、療養中だった沖田総司らを連れて、より安全な浅草今戸の祥福寺や私邸の今戸八幡(現在の今戸神社)で治療を続けていたと考えられます。
その後、江戸の無血開城が行われると松本良順は「幕府の医者として幕府に殉じる」と言って、江戸を脱し、会津に行き、負傷者の手当などをします。会津の陥落を機に、さらに北上して庄内に行きます。その頃、仙台に来ていた幕府海軍の指揮官 榎本武揚から蝦夷(北海道)に新政府を樹立すため同行を求められます。しかし、土方歳三の助言を受け、江戸に戻ることになります。
仙台からオランダ船で江戸に向かうものの、横浜で幽閉されます。1年半後に釈放されて、早稲田に私立病院を建設し、今日の病院の基礎を作り上げます。その後、新政府の山縣有朋が病院に訪れ、陸軍の軍医部をつくる協力を求められます。最終的には、山縣有朋の申し出を受け入れ、初代の軍医総監になるのです。松本良順はこの頃名前を松本順と改名ています。のちに軍医総監を辞した松本順は、明治の中頃名もない一漁村だった大磯町に別荘を持ち、学術的に如何に同海岸が人間健康に理想的であるかを研究し、大磯に日本で初めて海水浴場を開きました。それが広まり、大磯に多くの政財界人が大磯に別荘地をつくるようになります。なんと、歴代宰相だけでも、伊藤博文・山県有朋・大隈重信・西園寺公望・寺内正毅・原敬・加藤高明・吉田茂の8名が大磯に別荘や邸宅を構えます。
大磯「照ケ崎海水浴場」を日本で最初の海水浴場として紹介した松本良
日本で最初の海水浴場として紹介された「照ケ崎海水浴場」には、松本順氏の功績を世に永く伝えるため「松本先生謝恩碑」(昭和4(1929)年8月)が建立されています。
松本良順の軌跡は、吉村昭著「曉の旅人」に書かれていますが、この歴史小説を元に2002年12月25日に順天堂大学有山記念館講堂で吉村昭自身が講演を行なっています。その記録は、岩波現代文庫「白い道」(吉村昭著)の「曉の旅人」創作ノートとして収録されています。
吉村昭"私も佐藤泰然のような死に方をしたい"
その中で、吉村昭は、「私は、この良順のことを書いていて、幕府に忠誠を誓った一徹ななところが非常に好きでした。松本良順が最高に幸せだったのは、実証主義のポンペという西洋の医者に習って実証的な医学を身につけたこと、これが最大の幸せなのではないかと思います」と語っています。
また、松本良順の実の父親である佐藤泰然に対しては、「佐藤泰然という人に僕はとても感動しているのですが、自分が死に近付いたことが医者なのでわかるわけです。もう確実に死ぬと。そのときに泰然はどういうことを考えたか。(略)彼は食を絶ったわけです。さらに医薬品の供給も絶ちました。つまり、一つの自殺ですね。今は延命と言いますか(略)死というのはもっと厳粛なものだと私は思います。自然に訪れるものであると。(略)死は自然に受け入れるべきだと思います。佐藤泰然という人は、生きている人間のために医薬品の供給を絶つ。食物も絶つ。これは素晴らしい人だと思います。私も泰然のような死に方をしたいと思っています」と記しています。
この講演から4年後、吉村昭さんは東京都三鷹市にある井の頭公園近くの自宅で息を引き取りました。奥様で作家の津村節子さんは「お別れの会」で「前日、点滴の管と、首の静脈に埋め込まれた薬剤などを注入するためのカテーテルポートを自ら引き抜き、看病していた長女に「死ぬよ」と宣言。看護師にも「もういいです」と告げて息を引き取った」と話されています。